幕府内において最高権力をもった井伊は,次期将軍に紀州慶福公をまさに発表しようとしていた.
斉彬は権力が大きくなっている井伊に対抗するため出兵を計画していた.
それを可能にするためには朝廷からの勅諚が必要であった.勅諚を得るために有力な公家衆に働きかけるため西郷を京に派遣する
井伊はハリスとの条約を蹴って戦になり負けようものならこれ以上の辱めはないと,幕府内の意見を煽動する.
こうして安政五年,井伊直弼の独断で日米修好通商条約を締結した.
これを知った一橋慶喜は,政治についての発言権がないにもかかわらず,井伊に会うため登城した.
一橋慶喜は,朝廷の許しを得ずに条約の締結を行ったのはなぜか.これは将軍が朝廷の意向に逆らったということである,といって問いただす.
これに対して,井伊は「何分にも恐れ入り奉ります」と答えるばかりだった.
なおこのとき慶喜は次期将軍に慶福が就くことに賛成の意を示した.
この条約締結に対して水戸のご老公も烈火のごとく怒り,越前公と合流して登城した.
しかし,井伊はただこれらに人を待たせて気勢をそぐ作戦を行った.
そして,将軍の養子に紀州慶福がなった正式に発表された.
これについても井伊の独断であった.
家定が死亡したことが知らされる.
そしてさらに,斉彬が死の病に侵されていた.
久光を枕元に呼び,藩主になるよう言い遺して亡くなった.