大久保は三郎久光に近づくきっかけをつかめず思案していた.



まずは商人に三郎の趣味を聞く.学問が趣味で趣味らしい趣味はないが,唯一碁を打つということを知る.

これをきっかけに三郎に近づこうと考え,碁を習い始めることにした.



碁を習い始めたことが世間に広まるとよろしくないため,口が堅い師匠を探していたところ,

大久保の妻が実は碁を打つことを知る.大久保は三国一の妻だと言い碁の弟子にしてもらうこととなった.


家には碁石がなかったが,路肩にあるような石で間に合わせ,10日間徹夜でけいこに励み,ある寺院の坊主に入門した.


その坊主に筋が良いとほめられ,打ち筋が三郎に似ていると言われた.そしてさりげなく三郎の話に持っていき,精忠組は三郎のことをほめちぎった.




そして坊主は三郎に大久保の話をし,ほめていたことを伝え,さらに三郎が読みたがっていた国学の本を坊主伝いに渡した.その本も一度に全部渡さず一冊ずつ渡し,印象を長続きさせようとした.



そして大久保は本の中に処刑されたものの名前を記した紙を挟み込んだ.

それを見た久光は怒り狂い,坊主伝いに大久保に本を突き返してきた.

久光の頭に大久保の名が刻みこまれるか,お咎めがあるか,大久保は賭けに出たのだった.



お咎めはなかった.大久保の賭けは当たったのだった.



その頃,一橋派の弾圧はさらに強まり,水戸浪士は薩摩浪士と手を組み井伊襲撃の計画を立てていた.

大久保を中心に薩摩浪士は脱藩してまで計画を実行しようと考えていた.



大久保は久光の側近である谷村愛之助と会った.

谷村に近く脱藩することを告げる.



すぐに谷村は久光にそのことを告げ,久光は精忠組に対して書状をしたためた.

その内容は事変があるときは斉彬公の遺志を継ぎ,すぐに国家に駆けつけ忠勤するつもりであり,精忠組は藩のために柱石となって働いてほしい,という内容であった.


多くの精忠組の面々は斉彬の遺志を久光が継いでくれており,さらにその存在を認めてくれていることから,久光に対して従う意向であったが,

有村俊斎,有馬新七は水戸との約束や亡き殿の意向は都に兵を出すこと,久光の西郷に対する所業などを挙げて猛反対した.


大久保は有村俊斎を呼び,有村が脱藩するなら一緒に刺し違えて死のうと申し出る.有村は大久保のに従い脱藩はしないことを誓う.


大久保の久光抱き込み計画の第一段階は成功した.


このとき西郷は奄美大島において二人目の妻を迎えていた.










薩摩は二重鎖国と呼ばれるほどの状態で国境への侵入は容易でなかった.

西郷は月照を薩摩に引き入れるため裏工作を行っていた.



薩摩の隠居が斉彬の作った新式の大砲などを改めだした.

斉彬の未亡人が西郷に月照が薩摩に到着したときかくまうと言う.死んだ斉彬に対する最後の奉公として.



そんな中,月照が薩摩に到着した.


この時,月照の薩摩侵入はすでに藩に密告されており,月照には謹慎および面会謝絶が告げられる.



そして月照に日向送りが告げられる.その護送人に西郷が任される.

役人たちが月照をかくまうことによって幕吏たちによって処刑されることを恐れたためである.



西郷は薩摩藩がこのような腰抜けになってしまったことをひどく嘆いた.




そして輸送途中の船内において,西郷は月照を殺そうと刀に手をかける.

そのとき月照が振り返り二人は見つめ合う.西郷は意を決して月照の肩をもちともに船から飛び降りた.

二人して死ぬために.



その後,二人は引き上げられ,月照はすでに息絶えていた.西郷はわずかに息があった.

大久保らは西郷が死んだこととしてもらい西郷を引き取ることができた.



「わが胸の 燃ゆる思いに比ぶれば 煙は薄し 桜島山」西郷



吉之助が自力で起き上れるようになったのは12月の半ばになってからだった.

そして大久保は井伊がさらに伊予伊達公,土佐山内公などまで捕縛したことを告げる.



条約調印に反対であった勤王たちにもその手が伸び朝廷関係者たちにも弾圧が行われだした.

朝廷も次第に及び腰になっていった.このことがまた志士たちの闘志に火をつけたのだった.



鹿児島では西郷に奄美大島行きが命じられた.藩命だった.

西郷はあっさりそれを承諾する.大久保らは大反対する.精忠組の柱として何としても生きてもらわなければならないと.


それに対して西郷は月照とともに死のうと思ったのに死ねなかったのは天命であり,これからは天命に従うことにする.奄美大島行も天命だという.


そして奄美大島に行った.その途中の船内にて西郷は精忠組に対して命令文(心得文?)をしたためた.



一方大久保は,今回の井伊の件を目の当たりにして権力のすごさを思い知った.

そして時の薩摩藩での権力者である藩主久光に取り入ることを決意する.憎むべきお由羅の子であることは分かっているが,そのようなことは小さなことであって,目的のための手段でしかない.自分の志のためそれを恥とせず,どのような屈辱にも耐え忍ぶ覚悟であった.









安政5年(1858)7月.西郷は京の都において斉彬の死を文によって知る.


西郷は国に帰国することを月照に告げる.

ここで月照に腹を切るつもりであることを見透かされ説得される.忠義を尽くして死んだとて斉彬は喜ばない.斉彬の遺志をついでこそ本当の忠義であると.

西郷は泣きじゃくり考えを改める.



西郷は,井伊の罷免および水戸尾張藩士などの放免といった勅諚を朝廷に提出することを決めた.



大久保らもこれを受け精忠組全員で命を懸けて働くことを誓う.


その勅諚の内容としては,日本が一致して外国の侮りを受けないよう真心を尽くして働けというもの.

西郷の気がかりとして,水戸藩には今や有能な人材はおらず,世間が思っているほどの働きができないということがあった.


江戸の様子を探るため,四日という速さで今日より江戸へ上った.



西郷は根回しを行ったうえで勅諚を届けようと考えていたにもかかわらず,朝廷はそれを待たずに幕府と水戸藩にに勅諚を届けてしまった.



これが耳に入った井伊は激怒した.

ほかの諸藩に勅諚を回さないためにいったん井伊は勅諚を受け取った.



そして,井伊はこの勅諚にかかわった物をすべて処分すべてするよう命令する.


安政の大獄が始まったのである.




月照にまでその刃が向けられた.

近衛はこれを防ぐため月照をいったん奈良に隠すよう西郷にいう.

しかし奈良でも安全な状況でなく,予定を変更して薩摩に向かうことにした.



このとき江戸では第十四代征夷大将軍に家茂が就任した.